Flowe of life -Life is ART-

旅する絵描きの日々と想い。

【屠殺】鶏をこの手で絞めた日ー前編ー

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※事実をきちんと伝える為、生々しい表現があります。苦手な方は読まない方が良いです。

2018年5月22日(火)


私はパラグアイで、【鶏を絞めて捌く】と言う経験をした。


自分の手で、鶏の首を捻って、絞めた。


何度も、何度も捻って引っ張った。
血管も千切った。


なかなか息絶えない鶏の首を、引っ張り続けた。

凄まじい生命力。
羽根をもいでいる間も、

「まだ生きているのではないか?」

と言う錯覚に陥った。



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事の発端は、私の一言。
「鶏を絞めてみたい」

何気ない会話の途中で、何故その台詞を言ったのかはもう覚えていない。

でも、漠然とずっと考えていた事。


ずっと、“ちゃんと経験して、知らないといけない”と思っていた事。


4年半前のある日、モロッコの市場で買い物をしていると、目の前で生きている鶏が絞められる場面に遭遇した。


ロッコの商人の手によって、鶏は首の血管を包丁できられ、頭から水釜に突っ込まれた。
暫くすると、ちの抜けた鶏は動かなくなった。


驚きと、目を背けたい気持ちと裏腹に、初めて見る光景に、興味津々だった。
ただ、嫌な顔はしていただろう。
やめて、と心の中では言っていた。
いつも、鶏肉を食べているのに。


鶏を絞めるなんて、考えただけで嫌。
出来ることなら、やりたくない。
そんな事出来る人の気が知れない。


そんな風に考えていた当時の私だった。
(実際私は、犬や猫や鳥などを飼っていて、動物大好き一家の娘だ。)


でも、いつか自分の手で鶏を絞める日が来る事を、待っていた気がする。


私は、無関心過ぎた。
食べる事に。
食べている物に。
感謝を忘れていた。
そして、無知だった。


「いただきます」


毎食前必ず言う、その言葉には、どれくらい想いが込められてるだろう?
想いの込められていない言葉に、何の意味があるのだろう?


私が毎日言っていたのは、
“料理を作ってくれた人”や“その食材を作り育てたり捌いてくれた人”や“食べられる幸せ”に、ありがとうを込めた「いただきます」だった気がする。


だって、本当の意味で命の大切さを、分かっていない。
命を頂いていると言う事を、もっと、もっと分かりたい。
頭でじゃなくて、体験を通して、本当の意味で、心で、身体で、分かりたい。



ーもっと、命を知りたいー


ずっと、ずっとそう思っていた。




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南米パラグアイのイグアス日本人移住区には、「民宿小林」と言う、優しく賢いお母さんと、お茶目で可愛いお父さんの営む宿がある。



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私の一言をきっかけに、私とお父さんは、鶏を買いに行った。


3〜4羽毎に鶏が入ったゲージが4〜5個並んでいた。
元気よく羽ばたいたり、歩き回る鶏を見て、腰が引けた。


「やっぱり止めとく!怖い。。」


と思ったが、時既に遅し。


お父さんと店主が選んだ鶏が2羽、袋に詰め込まれた。
車に乗せて、家に帰る。


「今日やるのか、、、」



ー心の準備をしないとー



昨日の今日で、まさか本当にやることになるなんて。自分で望んだ事だが、まだまだ恐怖心が勝っていた。


しかしその夜、偶然やってきた嵐の様な豪雨の為、屠殺は延期となった。

私は少しホッとしていた。


次の日になって、鶏を入れた場所を見てみると、なんと、昨夜の嵐の影響で、鶏が2羽共、逃げ出して居なくなっていた。


複雑な気持ちが、胸の中でザワザワと音を立てる。

「せっかく用意してくれたのに申し訳ない」
「やりたかったのに、これでいいの?」
「鶏も分かってて逃げたのかもしれない」
「本当に、一つの命を奪っていいのか?」


お父さんは、また新しいのを買ったらいいと言っていた。が、そうこうしてる間に、隣の家の方が鶏2羽を手にやって来た。



「うちのじゃないのがいるの。お宅の?」

紛れもなく、先日買った鶏だった。


こんな広大な土地に放たれたのに
どこへでも逃げられたはず。
でも、鶏はしっかり私の元へ返ってきたのだ。


ーやるしかないー







そして、その時はやって来た。




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